第4章 愛の習練

愛の技術へのアプローチ方法・その前提条件について述べている。

必要な修練①は規律。生活全般において規律が必要。ないと、人生はバラバラ人あって混沌としてしまい、何事にも集中できなくなる。

規律が自分の意志の表現となり、楽しいと感じられ、ある特定の行動に少しずつ慣れていき、ついにはそれをやめると物足りなく感じられるようにすることが重要。

②は集中。一つのことを集中すること、ひとりでじっと座っていられるということは、人を愛せるようになるための必須条件。もし自分の足で立てないという理由で他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるかもしれないが、ふたりの関係は愛の関係ではない。朝晩20分瞑想すると良い。そして、私の力の中心であり、私の世界の創造者である私自身を感じ取ることが重要。

何をするにも集中することが必要。何をしているかは重要ではない。くだらない会話(常套句ばかり使って話、その言葉に心が篭っていない場合。)、悪い仲間を避けることも必要。(魂が死んでいるような人

)他人との関係において、精神を集中させるという事は、何よりもまず、相手の話を聞くという事。

集中するとは、今ここで、全身で、現在を生きる事。何かをやっている時は次にやる事は考えない。

一番集中力を身につけなければならないのは、愛し合っているものたち。

集中力を身につけるために必要なのが③

また、自分に対して敏感にならなければ集中力は身につかない。疲れを感じたり、気分が滅入ったりした時、その気分に屈したり、陥りがちな後ろ向きの考えに囚われると、鈍感さを助長することになる。そういう時は「何が起きたのか」と自問すべきだ。どうして私は気分が滅入るのだろうかと。変化に気づき、うちなる声に耳を傾ける事。

③は忍耐。時間を無駄にしないとか、早ければ良いということではない。

④最大限の関心を抱くこと。熟達したかったら、自分の全生活をそれに捧げなければならない。私自身が愛の技術の修練に用いられる道具にならなくてはならない。

愛するという技術に熟達したいと思ったら、まず、生活のあらゆる場面において、規律・集中。忍耐の修練を積まなければならない。

愛の能力にとって特別な重要性を持つ特質

①ナルシシズムを克服する事。自分にとって有益か危険かという基準から経験されることをナルシシズムという。ナルシシズムの反対の客観力が重要。客観的に考える能力が理性。理性の基盤となる感情面の姿勢が謙虚さ。自分の生活全体を、謙虚さと客観性と理性を育てるために捧げなければならない。

人を愛せるかどうかは、ナルシシズムや、母親や身内に対する謹慎相関的な病的執着から、どれくらい抜け出ているかによる。また、外の世界や自分自身との関係において、生産的な方向性を育てる能力がどれくらい身についているかにもよる。

②信じること。根拠のない信念は道理にかなわぬ権威への服従に基づいた信仰のこと。理にかなった信仰とは、自分の思考や感情の経験に基づいた確信。理にかなった信念は、知性や感情における生産的な活動に根ざしている。

ヴィジョンを、追求するに値する道理にかなった目標として信じること。ついで、仮説を信頼できそうな前提として信じること。そして最後に、出来上がった理論を、少なくともその正しさが一般に認められるまで信じ続けること。この信念は、自分の経験や、自分の思考力・観察力・判断力に対する自信に根差している。理にかなった信念は、大多数の意見とは無関係な、自分自身の生産的な観察と思考に基づいた、他の一切から独立した確信に根ざしている。

人間関係においても、信念は、どんな友情や愛にも欠かせない特質。他人を「信じる」ことは、その人の基本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと革新すること。自分にも芯を持たないと、他人に褒められるかどうかで左右されてしまうことになる。自分を信じているものだけが、他人に対して誠実になれる。愛に関していえば、重要なのは自分の愛に対する信念である。自分の愛は信頼に値するものであり、他人の中に愛を産むことができると、信じることである。

他人を信じることのもう一つの意味は、他人の可能性を信じること。これらの可能性は、いわば種子であり、もしその発達を促すような条件が整えば成長するし、そうした条件がなければ枯れてしまう。

理にかなった信念の根底にあるのは「生産性」である。信念にしたがって生きるという事は生産的に生きるということである。

信念を持つには勇気がいる。勇気とは、あえて危険を犯す能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。

安全とzん程こそが人生の第一条件だという人は信念を持てない、防御システムを作り上げ、その中に閉じこもり、他人と距離を置き、自分の所有物にしがみつくことで安全を図ろうとする人は、自分で自分を囚人にしてしまうようなものだ。愛されrには、そして愛するには、勇気が必要だ、ある価値を、これが一番大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値に全てをかける勇気である。

みんなに受け入れられなくても、自分に課せられた試練として受け止め、これを克服すればもっと強くなれるはずだというふうに考えるには、信念と勇気が必要だ。

信念と勇気の修練は、日常のごく些細なことから始まる。第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんな時にずるく立ち回るか、それをどんな口実で正当化しているか詳しく調べることだ。

それによって、人は意識の上では愛されていないことを恐れているが、本当は無意識の中で、愛することを遅れている、

人を愛するという事は、なんの保証もないのに行動する事であり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねる事。

愛の修練にあたって欠かせない姿勢は能動性。内的能動、つまり自分の力を生産的に用いる事。愛は能動である。寝ている時以外は、能動的にいなければならない、。退屈したり退屈させたりしない事は、大切な条件の一つだ。1日中目と目目を駆使する事、なんでも受け取ったまま溜め込む、時間を無駄に過ごすと言った内的な怠慢を避けることが、愛の技術の修練にとって欠かせない条件。

愛の技術について論じるにあたって、性格特性や姿勢を身につけてさらに発達させるといった、個人的な面についてだけ論じてはいけない。個人的な側面は、社会的な側面とも密接に繋がっている。公平の倫理の公平とは「感情の交換においても、人を騙したり策略を用いたりしない」ということ。資本主義社会は、倫理に対して公平という倫理の発展に貢献した。

黄金律の倫理というのは、「隣人を愛すること、つまり隣人に対して責任を感じ、自分とはその人と一体であると感じること」である。つまり、公平には愛はなく、黄金律には愛がある。

資本主義と密接に公平の倫理が基本の倫理となっている現代社会において、愛が、極めて個人的で些細な現象ではなく、社会的な現象になるためには、現在の社会構造を根本から変えなければならない。

フロムが証明しようとしたのは、愛こそが、いかに生きるべきかという問いに対する唯一の健全で満足のいく答えだということである。

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