第二章 愛の理論 3愛の対象

愛とは、世界全体に大して人がどう関わるかを決定する態度で、性格の方向性のこと。

1人に対しての愛は、共棲的愛着あるいは自己中心主義が拡大されたものに過ぎない。

愛が活動であり、魂の力であることを理解していないために、正しい対象を見つけさえすればひとりでにうまくいくと信じている人が多い。

これはちょうど、絵を描きたいと思っているくせに、絵を描く技術を習おうともせず、「正しい対象が見つかるまでまっていれば良いのだ、見つかりさえすれば右とに描いてやる」と言い張るようなものだ。

ある1人を愛しているということは、その人を通して全ての人を世界を自分自身を愛することである。

ただし、愛するには対象によって種類があるため、愛し方も種類がある。

愛の対象1つ目:友愛

あらゆるタイプの根底にある基本的な愛が友愛。

あらゆる他人に対する「責任・配慮・尊重・知」で

その人の人生をより良いものにしたいというもの。

全ての人間が持つ核は同一で、私たちは一つである。

愛の対象2つ目:母性愛

子供の生命の肯定。2つの側面がある。①子供の生命と成長を保護するために必要な、気づかいと責任。②生きることへの愛を子供に植えつけ「生きていることは素晴らしい」「この地上にせいを受けたことは素晴らしい」という感覚を与えるような態度である。人生への愛を教える。

②を与えるためには、母親は幸福な人間でなければならない。

母性愛の真価が問われるのは、幼児に対する愛ではなく、成長を遂げた子供に対する愛である。

幼児まで動物にも備わっている本能として、子供を世話する母親が多い。

しかし、母親が子供を自分の一部と感じている限り、子供を溺愛することは自分のナルシシズムを満足させることにもなる。母親の権力欲や所有欲も動機になりうる。しかしお最も重要で普遍的なのは、「超越への欲求」と呼びうるような動機である・これは、人間の最も基本的な欲求の一つで、人間は被造物(紙に作られたもの)という役割だけでは満足せず、自分は創造者だと思いたい。それを満足させるのが母親になることだ。しかし子供は成長し母親から離れていく。

子供から離れていくのを望むことが母性愛の本質だ。

全てを与え、愛するものの幸福以外何も望まない能力が母性愛で、最も難しいところだ。

本当に愛情深い母親になれるのは、愛することのできる女性、つまり夫、他人の子供、見知らぬ他人、そして人類全体を愛せる女性だけである。

愛の対象3つ目:恋愛

恋愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つになりたいという強い願望である。

性欲はどんな激しい感情によっても書き立てられるのが、性欲を愛と結び付け誤解している人が多い。もちろん、愛が性欲を掻き立てることもあるが、その時には「優しさ」だけがある。

また、愛は友愛から直に生まれるものであり、肉体的な愛にも精神的な愛にも含まれている。

また、恋愛において誤解されやすいのは、「愛し合っている」2人が他の人には目もくれないということは、彼らの愛は利己主義が2倍になったものに過ぎず、1人を2人に増やして孤独を解決しようとするが、2人以外の全てから孤立するので、依然として多大に孤立していて、自分自身からも阻害される。

正しくは、相手を通して人類全体、この世に生きている全てを愛する。

1人の人間としか完全に融合することはできないという意味においてのみ、排他的。恋愛は、性的融合、すなわち人生の全ての面において全面的に関わり合うという意味では、他の人に向けられた愛を排除するが、深い友愛を排除することはない。

恋愛には前提がある、自分という存在の本質から愛し、相手の本質と関わり合うということである。すべての人間は同一である。私たちは絶対者という一者の一部であり、一者そのものである。だとしたら、誰を愛するかなどは問題ではないはずだ。

 愛は、意志に基づいた行為であるべきで、自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。もし愛が単なる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束には何の根拠もないことになる。感情は突然生まれ、また消えていく。

恋愛はひとえに個人と個人が惹きつけ合うことであり、特定の人間同士の個別的なものであるという見解も正しいし、恋愛は意志の行為に他ならないという見解も正しいし、どちらも正しくない。それゆえ、恋愛はうまくいかなければ解消すれば良いという考え方も、どんなことがあっても解消してはならないという考え方も、共に間違えている。

愛の対象4つ目:自己愛

自分の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち配慮・尊重・責任・知に根ざしている。

利己的な人自分の役に立つかどうかという基準で全てを判断する人は、根本的に愛することができない。利己的な人は自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎる。その人が自分に対する愛情と配慮を欠いているのは、その人が生産性にかけていることのあらわれに他ならず、そのせいで、その人は空虚感と欲求不満から抜け出すことができない、不幸者だ。

非利己主義においても、生産性の欠如が原因で起こっていて、生産性の欠如を治療しなければならない。非利己主義は、愛する能力や何かを楽しむ能力が麻痺しており、人生に対する憎悪に満ちている。見せかけの非利己主義のすぐ後ろには、同じくらい強烈な自己中心主義が隠れている。

愛の対象5つ目:神への愛

西洋においては、神への愛は神を信じること。思考上の体験。

東洋においては神への愛は神との一体感という感覚的で強烈な体験。生のすべての行為においてその愛を表現することと不可分に結びついている。

神への愛も、母性原理・父性原理と同じような発達過程が見られ、成熟していく。

①母なる女神への無力なものの依存②父性的な神への服従③人間の外側にある力とみなすことはやめ、愛と正義の原理を自分の中に取り込み、神と一つになる。④私的にあるいは象徴的にしか神について語らないようになる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました