ここ数ヶ月してきた悪事が夫にバレたかもしれない。
悪事とは、
夫にばれたら自分に不利益があるかもしれないことだ。
ただし前提として、
罪のない人たちを傷つけないことや、法を犯さないことがマイルール。
あと50年生きるとしたら、悪事を後悔する瞬間もあるかもしれない。
でももし、残りの人生が残り一年なら、私は迷わず悪事を働く。
夫の不倫が発覚してからというものの、私は自分の命が惜しいと思わないし、
幸い私が居なくなったところで生活が困窮する人もいないから、居なくなってもOK。
ということで私は、人生を残り一年だと思って、悪事を働く選択をした。
最悪嫌になったら、いなくなってしまえばいい。
希死念慮とは違う。人生を辞めるという最終手段は、私の今を生きる原動力となり、心の支えになっている。
悪事による短期的な効果は、
夫の不倫や朝帰りに寛容になったことだ(無関心ともいう)。
不倫相手と会っていても、夫の帰宅時には「おかえり」と快く迎えられる。
そして油断している間に証拠を淡々を集めている。
これまで「正しく、清く生きること」に命をかけていた私は、
夫の不倫をきっかけに、初めて悪事を働いた。
はじめは、「清い自分」というアイデンティティが無くなったようで、損失感や絶望感があった。
地獄に落ちた様な顔をして晩、事情(夫の不倫や私の悪事)を知る友人に会った時、
「やると決めてやったんだから、上手くいかなくても後悔するな。やってみてダメなら、ダメだと分かってよかったと思えばいい。そして、100個の選択肢から、99個の選択肢になったのだから、正解に辿り着ける確率が上がったってことだろ。」と言われ、単純な私は一瞬で地獄から這い上がることができたのだ。
その後その友人からは「バレるぞ辞めとけ。」と悪事を咎められながらも、
「やると決めたから、後悔せずにやってみる」と言いながら数ヶ月悪事をし続けた。
数ヶ月経つと、悪事に没頭する気持ちがだんだんと冷めていき、
悪事もそろそろ辞めようかなという気になってきた。
そしてふと
「結局私を幸せにできるのって、私だけなんじゃない?」と思うようになった。
いろんなところで、見聞きしてきた「自分自身を愛す」とか「自分で自分の機嫌をとる」ということは分かるようで、自分からあまりにもかけ離れたものだった。
生まれた時から、「あなたは生きているだけで100点満点よ。」とか、
毎日家でご機嫌に過ごす両親を見て成長した人だけができることだと思っていた。
悪事を働く中で、
満たされることもあったけど、満たされないこともあった。
信じられることもあったけど、信じられないこともあった。
惹かれることもあったけど、違和感を感じることもあった。
私を24時間一生涯満たす完璧な存在なんて、いくら探しても無いんじゃないの?
いつだって、どんな自分だって、死ぬまで側にいてくれるのって、もしかして自分だけなんじゃないの?と思った。
自分が自分と居るというのはおかしなことを言っている様な気もする。
だって、外見上は自分という存在は1つだ。
その一方で、私はいつも心の中で対話している。自分自身と。
自分に向かって「私ってダメだな。」って言ってることもあるし、
今日の悪事がバレたかもしれないって思った時も、
「弱み握られたらどうしようか?」って自分に問いかけながら、思考して作戦を立てていた。
よくわからないけど、自分ってもしかしたら、1人のようで1人じゃないのかもしれない。
もし、いつも自分に話しかけてくる、もう1人の自分がいるとしたら?
もう1人の自分が、「私ってダメだな」って声をかけるんじゃなくて、
「生きてるだけで偉いよ。」「今日も頑張ったな。」「失敗したんじゃなくて、成功に近づいてるんだよ」って話しかけて、寄り添ってくれるとしたら、
「自分で自分を満たす」ことができるんじゃないか?
とりあえず私は、正解に近づく為に、できることを一つ一つ実行して、失敗を失敗と思わず、成功の確率を上げていったらいいんじゃないか?
そんなふうに思ったので、
今回、夫にバレたかもしれない状況に陥ったことで、タイミングよく悪事から足を洗うことができそうだ。
バレたか知らんが、悪事から足を洗うきっかけになってよかった!!
次は何をしてやろうか。
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