第3章 愛と現代西洋社会におけるその崩壊

愛=生産的な能力 と仮定すると、愛する能力は、その社会が人々に及ぼす影響に左右される。

今日の資本主義社会は、誰もが孤独で、孤独を克服できない時に必ずやってくる不安定感・不安感・罪悪感に怯えている。しかし孤独には気づかないように、人間の根本的な人間的欲求、すなわち超越と合一への憧れに気づかないように、様々な鎮痛剤がある。娯楽までも受動的に消費している。物質的なものだけではなく精神的なものまで交換・消費の対象になっている。

結婚についても言える。結婚の理想は円滑に機能するチームだ。=滞りなく役目を果たす労働者という観念と対して違わない。このような円滑な関係を続けていると、夫婦間でギクシャクする事はないが、結局2人は死ぬまで他人のままであり、決して「中心と中心の関係」とはならず、相手の気分をよくするよう努め、礼儀正しく接するだけの関係にとどまる。愛と結婚に関するこうした考え方は、耐えがたい孤独感からの避難所を見つけることに1番の力点が置かれている。この2人は利己主義が2倍になったものに過ぎないが、それが愛や親愛の情だと誤解されている。

一昔前は、夫婦は「性的適応」をすることが重要視されセックステクニックを身につければうまくいくものだと考えられていた。

しかし、夫婦間の性的障害の原因は、正しいセックスのテクニックを知らないことにではなく、愛することをできなくするような感情の抵抗にある。性的障害の根底には、異性に対する恐怖や憎悪があり、そのために、完全に没頭する、自発的に行動する、直接的な肉体的接触の際にsexのパートナーを信頼する、といったことができない。性的に抑圧されている人が、恐怖や憎悪から解放され、それによって人を愛せるようになれば、性的な問題は解決する。

フロイトは本能的な欲望が抑制されることなく十分に満たされれば、精神的な健康と幸福が得られるはずだという。しかし、臨床上の事例がはっきりと示しているように、男であれ女であれ、飽くことの無い性的満足に人生を捧げる人は幸福にはなれない。それどころか神経症的な葛藤に陥ったり、神経症の症状を呈したりすることすらある。あらゆる本能的欲求を完全に満たす事は、幸福の基盤でないばかりか、正気を失わせかねない。

互いの性的満足としての愛と、「チームワーク」としての愛(あるいは孤独からの避難所としての愛)はどちらも病んだ愛の姿であり、結局は苦しみをもたらす。神経症的な苦しみである。

また、現代人は過去か未来に行き、現在を生きていない。

愛があれば対立は起きないということも誤りである。2人の間に起きる真の対立、すなわち何かを隠蔽したり、投射したりするものではなく、内的現実の奥底で体験されるような対立は、必ずや解決し、カタルシスをもたらし、それによって2人はより豊かな知と能力を得る。

2人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じ合う時、すなわち、それぞれが自分の存在において自分自身を経験する時、初めて愛が生まれる。それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。愛があることを証明するものはただ一つ。2人の結びつきの深さ、それぞれの生命力と強さである。これが実ったところにのみ、愛が生まれる。

現在神は、世界株式会社の代表取締役に変えられてしまった。

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